オリエンテーション合宿見送り

 昨夜はホテル・メッツに泊まり。教育学科の「教育基礎演習」の一環として「オリエンテーション合宿」行事が取り組まれる。学生、教職員、全員参加なのだが、ぼくは体力的な問題を生じるといけないことから、留守を預かることにした。今日は早朝から、バスで出発する皆さんをお見送り。出発間際に駆けつけた学生もいて少しはらはらさせられたけれど、とりあえず無事出発。手を振ってお見送りをしたが、中にはなんのことか分からない学生もいる様子の車内光景があった。そうだよな、彼らにとってぼくという存在は日常性がないから。明日夕刻お帰り。お出迎えができるでしょう。
 教育実習がいよいよ始まります、との報告をYNさんから受けた。杉並区のY中で1年の国語を担当するとか。良かった良かった。6月10日の週に「参観指導」に行く約束をした。
 道徳教育の研究の前に昨日の男子学生の来訪。「依存と援助の共同体」の和歌山大学での最終講義のコピーをプレゼント。何らかのヒントになってくれればと思う。併せて『セガン研究』。
 道徳教育の研究は、今後どのように授業を進めていくかのディスカッション。「討議」を大いに好む。それは何故なのだろう。流れゆく音声にどれほど心を重ねることができるのか、企画討議ではない。考えの言い合い?ぼくのこれまでのこのタイプの授業では、学生もぼくも「成功感」を味わったことがない。「書き綴る」ということの学習的意義はどうしてもつかめないようだ。めんどくさい、が先行している。それはそれで率直な感想だろう。「語る」と「綴る」.これは、史観的に「立ち止まることができるかどうか」「再度の点検が可能かどうか」「記録として正確に保存ができるかどうか」という問いも併せて考えられるべきなのだが、それはまったくなし。プリント作業を自分たちでやろうという提案もない、「先生に申し訳ないけれども。..」という。さて、どのようにすべきか。「あなたまかせ」で通り抜ければそれに越したことがない、という「依存」だけで、私の力を提供しますという「援助」がなければ、単なるエゴイズム。「学びのプロセスをどう作るか」こそが大切な思考と実践なのだけれどなあ。しかし、グループ分けの「技術」には舌を巻きました。