早速吐き出す、胸のつかえ−パリ・コミューン研究のための第一歩

 パリ・コミューンが手がけた教育改革の本質を理解するためには、それ以前あるいはその当時の一般的な教育事象について理解しておかなければならないだろう。きわめて概略的であるが、次の事例の紹介がもっともふさわしいように思われる。
 オーヴ県のモンポティエ・コミューンの苦難史は、多くの事例のうちの一つにしか過ぎないが、民衆が自らの教育を手に入れるにはどれほどの苦難があったかをリアリティを以て知ることができる。アンスティドーオノレ・ガルニエとジュール=アンスティド・コルタートという二人の教師が「モンポティエにおける初等教育の状況に関する歴史略述」において、とりわけ1800年から1871年までの時代、大変な教育困難や有為転変を、詳述している。
 1833年に、「ある変化が起こった」。市会と「住民の中間層」が「持ち回り投票によって」7人の候補から一人の教師を選んだ。その俸給は年400フランであった。彼はコミューンによって住居が与えられ、「毎日曜日、晩課の前の一時間、教理問答集を作る義務を負わされた」。ガルニエは、1860年12月20日付の日記に「...教師はワイン用のぶどうの収穫の時に日に三回教会の鐘を鳴らす義務を負った」し、それはまったく無報酬だった、と明確に述べている。それとは別に、日課として「お告げの鐘」を鳴らす責務を負い、「6フランと見積もられる墓地草が彼に与えられた」。
 児童就学に関しては、コルタートが「1860年から1863年まで、生徒の数はおよそ80名を維持した」と述べている。1867年には93に達している。1868年から1871年までは低下した。その現象に関する本質的な原因は二つある。出生数の減少と幼児死亡率である。1854年から1865年まで、193人の子どもがモンポティエで生まれ、82人が2歳前に死亡している。「...当時、平均して、12人の出生に対して、2歳以下で、7人の子どもが死亡した。14人の死亡数に対して、2歳以下の子どもの死亡数は7人である。恐ろしい割合である!」 小学校で、「1860年以降は、農業、測量、体積計算に関する基礎知識」が教えられた。1864年から歌の授業が始まる。1868年から1869年には若い娘が針仕事の訓練を受けるようになった。1860年以降は、就学期間が年に11か月になったが、「ほとんどの者は平均が8か月であり、5か月は同情に値する子ども、すなわち瓦工場で瓦を運ぶ仕事に従事する子どもの授業に充てられた」。子どもたちは粘土の搬出の鉱山で寝泊まりをしていた。「しばしば、幼い子どもが成長しはじめると、わずかな金額と投機によって学校から引き抜かれた。そして瓦工場に投げ込まれた。朝の4時から夜の7時まで、子どもたちは手に瓦を持って裸足で休みなくかけずり回った」。学校に通うのはおよそ7歳からであった。家庭環境は「父親は早く寝るか居酒屋に出かけた。子どもたちは浮浪していた」、「(両親が)収入があった時には、それですべてだと信じていたし、それ以上の責任はないと思わされていた。つまり、良い結果を得るためには、教師が子どもを続けてその指導の下に置くことが必要であったはずである」。このいささか厳しい見解でコルタートの日記が閉じられている。
 これらの記録は、1871年までの教育現場で、なされるべき処置について強調している。ガルニエは、彼自身に関して、コルタートと同じような苦渋をその日記に残している。「人間と市民の権利の問題に関しては、革命期の教師はその教育においてどんな変化ももたらされなかったことは確かである。その証拠には、諸個人はまだこの時期その権利を言うには無知であった」。