授業無き教育論の開始

大学が公式に行っている授業評価には、「教科書を使っているか」、「板書をしているか」等の項目が並んでいる。「近代学校における近代教育」の姿が端的に現れており、私など「近代教育」批判者の存在などは認められない評価法である。学生にしてみれば小学校からずっと、教科書のない授業はないし、板書をしない授業はないし。教師は板書をノートに写す指導をするし、板書は教師の語りのまとめであったり教科書のまとめであったりするから、いわば教師の語りは「補助」であり、管理説教であったりする意味が重い。
 私は、授業の「テキスト」は、印刷物と語りと両方であり、時に両者が補い合い、時に両者はそれぞれが別の役割を果たすもの、と位置づけ、学生にはその旨を説明します。ですが、この教授法になじまない学生の大半は、当初、教師の語りにはほとんど耳を傾けません。何故なら、「世界的に驚異的に高い識字率を誇る日本の大学生」ですから、印刷物を読めば語りなど聞かなくてもいい、という参加姿勢です。
「メモを取れない日本人」はこうしてつくられています。
私は、民衆の間での本当の意味での「テキスト」に位置づけられてきた「語り」(「語り合い」)の意義を教員養成段階でしっかりと「教えたい」のです。「近代的方法」のみに束縛される「近代学校」とは決別すべきだと思っています。(FB投書)