今日を限り

 少年期に、歪んだ「出世」欲から夢見た「大学教授」のポストは今日を限りに失う。明日からは失職者。あっけないものだなあ、と痛感。「留学して、学位をとって」などと大学入学当時はクラスメートやペンフレンドにうそぶいた。鼻持ちならないエエカッコシー。当て所もなくさまよう青年期。それでも時代がそれを許した。疾風怒濤期などと嘯いて、為すことは遊興三昧。その頃もまだ「留学して学位を取って」とぼくの実態を知らない人に虚勢を張っていたっけ。嘘つきで怠け者、それで人様と、臆面もなくコミュニケーションを取っていた大学生時代。
 転機はやはり、細君との出会いであった。そして、その後に得たさまざまな人との出会いと交流は、本物の人間であろうとするぼくを鍛えてくれた。「留学」や「学位」のために生きるのではなく、真人間であること、自他に誠実であることのために、教育、研究そして実社会と関わって生きる事を決意した。いやなによりも自分自身に誓った、長男・博史を白血病で失ったその日。
 夢中になって駆け抜けた50代直前までの、埼玉大学和歌山大学勤務時代。ゼミを通して生涯の友人と呼べる若い人たちと学び、語り、世界を広げた。それ以降はフォーマルなゼミを担当することのない資格課程の学習院大学勤務。学生との学びあいによって研究課題を広げ、深めていたのとはまるで違い、研究と教育とを方法的には分離せざるを得なかった。そのまま定年を迎え、そして今日。
 研究に課題を見出せずに、このまま本当の怠け者として大学人生活の終わりを迎えるのかと諦めの心境が続いたが、2000年度一年間、サバティカルの機会を得てから、研究者人生が大きく変わった。能力もないのに書斎派こそが研究者のエリートという観念が打ち破られたのだった。「歩く教育学者」と評する人がいたが、外国の地で言語コミュニケーション能力が無いのが幸い、目的と内容とに向かって「歩く」というのではない。「さまよい歩く」。ヴァガボン(放浪者)。そんなのが研究として許されるはずはない、だが、ぼくにとっては至高の宝物であったのだろう。「フレネ教育研究」、「セガン研究」、「パリ・コミューン研究」を産み落としてくれた。後2者は「一九世紀フランスにおける教育のための戦いーセガン、パリ・コミューン」(幻戯書房)として実を結んだ。
 さあ、明日からは、間違いなく、人生の放浪者。楽しまなくっちゃウソだね、「留学」や「学位」という強迫観念に縁のない、真の自由人として。