船橋へ


 朝7時半より40分間有杖歩行訓練。今日午後行った外出訓練の実績からするとこの時間から判断するに2キロほどか。とくだん右腰の痛みを強く感じることもなかった。ただ、左脚が次第に無感覚状態になっていく。これが「疲れ」というやつなのだろうか。児童公園で速歩を試みた。10メートルほどを3往復。速歩といっても主観にしか過ぎないのだろうけれど。自分の身体にリズムの変化を入れ込むことができそうだと分かっただけでも大きな進歩なのだろう。最後は身体が左に崩れたので、グランドに大の字になり、天空を眺めた。気持ちいい。
 歩行訓練から帰宅して、今日は「人格全体のリハビリ」に挑戦してみたい、という気持ちが沸き起こった。他者とふれあい、談笑し、必要なものを購入する。トドちゃんのご協力を仰ごう!かくして、お昼過ぎ、船橋でトドちゃんとお会いし、昼食をご一緒し、血圧測定器、歩数計測器、プリンターインキの購入にお付き合いいただいた。自宅―船橋駅間は当然独力である。
 やったね―。トドちゃん、ありがとう。
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facebookに以下を投書。
「リハビリが機能ノルマ化している!このことに気づいた。今日は何分、今日は無杖だ、そんな「記録」しかノートに残らない。そして「苦痛」を感じる記述が日に日に増えていくだけ。入院中のリハビリはあんなに楽しかったのに。なぜなのだ。
 入院中のリハビリは必ずコミュニケーションが伴っていた。たとえばこうだ:少々疲れたなと思うと、療法士が「何か飲みますか?」と声をかけてくれる。ぼくは暖かい緑茶が好きなので「暖かいグリーンティを」と注文する。すると療法士があつらえてくれる。それはどこでもあるサービスだろう。だが、「川口さんは、暖かい、という表現と、グリーンティという表現を必ずしますね。どうして、暖かい+緑茶、じゃないの?」という<遊びのコミュニケーション>が為される。この<遊び>こそがリハビリの空間を和ませ、楽しませ、やる気をいっそうおこさせてくれたのだ。これは、ぼくなどが日本の教育界からつかみとらされていた<無駄の徹底排除>(たとえば、掃除における黙働)という「教育的正義」の対極にあるものだ。
 今、毎朝、黙々と、ノルマとしてリハビリをこなしているが、それは無駄のない機能訓練化しているのだ。療法士がみんな口を揃えて言っていたのは、「生活の具体とリハビリとを結びつけましょう」だった。ぼくの依って立つ「生活教育」と同じなのである。
 そうだ、街に出よう。人と語らい、必要なものを購入し・・という生活行動、すなわち人格全体のリハビリをしよう!
 ・・・今日の午後、知人と船橋で合流し、昼食を共にし、語らい・・・、入院前の生活をほんのわずかだけど、再現させた。あれほど、疲れと痛みにぼやいていたのが、嘘のように薄くなったのを感じている今である。協力、支援をしてくれた友人に感謝!」