我が身を姿見に映すこと


 病院でのリハビリは総じて楽しいものであったが、ただ一つ、「いやだな」と思うことがあった。それは手のリハビリで、健康な右手をモデルとして麻痺した左手の訓練をする際に、ぼくの前に大きな姿見が置かれることだった。
 作業療法士の指示に従って両手を万歳させる。天空に思い切り両手を突き上げたつもり…だが、右手がしっかり伸びているのに左手はぐにゃっと折れている。「意識」と「実際」との乖離をかくも見せつけられる…見せつけられるのではない、認めざるを得ない現実だ。引きつり、照れ隠しで笑うその顔の醜いこと醜いこと。あれ?このシーン、どこかで知ったぞ…そうだ、19世紀パリの文化史の調査をした時に、見世物小屋の呼び込みにあったぞ、「神さえも見たわぬものを見せるよ!」。ドキドキして小屋に入ると、大きな鏡が一枚、目の前に現れ、見えるのは滑稽なおのれの姿だった。
 リハビリで鏡が引き出される度に、おのれの姿を見ているのではない、手のリハビリの成果を確認し、課題を自覚しているのだ、と自身に言い聞かせるが、「神さえも見たわぬもの」との対面は、退院の日まで続けられたのだった。
 それにしても、昨今の我が国の露出狂文化の一つ、電車の中で我が顔をためつすがめつ眺めている光景に接すると、かの見世物小屋のことを強く思うのである。