40年ほど前の軌跡


 今朝の寝起きの体調は優れない。腰から下の脱力感がきわめて強い。居室からリビングへ、居室から洗面所へ移動するにあたって腰砕けが今にも起こるのではないかと不安が走った。「今日の歩行訓練は取りやめたいなあ」とぶつぶつ。一回楽してみてもええやん、との甘い誘惑の内心の声。「それに倒れて怪我でもしたら家族に迷惑かけてしまうし。」と、もし何かあったらお前だけの問題ではない、周りが迷惑するのだ、という「学校的協調性」(要するに「脚の引っ張り」)を主張する声も聞こえてきた。とたんに、ぼくは、「今存在することが迷惑をかけているわけで、しかもその迷惑はぼくが生きている限り続くかもしれないほどの問題で、それなら存在を抹消するしかないな。」という思春期的反抗心をむくむくと沸き起こした。そこでようやく気持ちが落ち着き、んならまあ、歩行訓練に出ることにしようと、杖を持ち、歩数計とカメラとを上着のポケットに忍ばせ、玄関たたきに足を下ろした。「しまった、右と左とを間違えたっ!」 下りる時は左からというリハビリ鉄則を失念したのだ。案の定、上がりがまちに身体が崩れた。ほら、言わんこっちゃない。気いつけなはれや、じじい。ほい、じゃあ行くか。一人芝居でもやっていないと、気が滅入ります。出発午前7時。
 門扉を出て、左に進路をとる。雑木林の間の緩やかな下り坂を進む。雑木林が切れると道はTの字に左右に分かれる。左に進路をとる。道の左は雑木林と林を開発して造られた豪華な民家数軒続いて民間会社の家族寮、なかなか立派な作りである。対して道の右は、もと田んぼや沼地であったところが整地されて、住宅が建ち並ぶ。最後まで売れ残った土地空間に、近年、福祉施設が建てられた。娘が小学校低学年の頃は、田んぼや沼地をターゲットにして、ザリガニやカエル、ヤゴ、タニシ、ドジョウなどの狩猟遊びに精出ししたものだったなあ。細君はこういったことはまるでだめなお方なんだと、娘たちと自然遊びをするようになって、初めて知ったのだったな。ただし、ヘビ、ヤモリ、イモリ、トカゲ類が登場したと遊びから帰って報告すると、「今度は家に連れてきてね」と無茶な要求をするお方だということも、知った次第。このふとした思い出が、今朝のこの後の歩行訓練の行動を決めさせた。なんて無計画なんだ。ほら、それはその、ぼくそのものじゃあないか。
 くだんの道はバス通りと交差する。右に進むと我が国で初めて「ニュータウン」という名称を冠した巨大団地光が丘方面。左に道なりに進むとJR南柏駅に行き当たる。途中で旧水戸街道と交差し、その近在には野馬堤の痕跡を見るし、明治初期まで行われていた処刑場遺跡などを見る。いずれ歴史散歩を兼ねた歩行訓練をしたいと思っている。今日はバス通りを突っ切って進む。その地域はわたしたち家族がこちらに越してきた時から10年ほどの間、通い、歩き回ったところなのだ。今では東武新柏駅を利用する道筋になる住宅街である。
 新柏駅に突き当たり、左に折れ、さらに交通量が比較的多い車道に突き当たる。さて、どうするか。右に行くとそのまま娘や細君の健康な足で40分ほどまっすぐ歩き続けると、入院していた名戸ヶ谷病院に行き着く。その道筋は、娘を自転車に乗せて「サイクリング」を楽しんだ広大な広大な原っぱであったが、今では高級感溢れる、いや高級な高層住宅が周りをを睥睨し、その「マンション」建設に伴い創られた高級スーパーなどが建ち並ぶ。脚をそちらに向けてチラ見したが、やはりぼくの性根には合わない地域らしく、さっさと引き返した。
 さて、どうしよう。車通りの「マンション」と対面している地帯は高台になっている。緑豊かな児童公園あり、広い竹藪あり、放置されていない畑あり…のはずである。そして、娘たちがお世話になった市立豊住保育園はさほど遠くない。のどかな農村地帯にちらほらと新住宅が見られる、というぼくの強い期待は、残念ながら打ち砕かれしまうのだが、それでも、保育園は健在であることを見いだして、しばし門前に佇んだ。
 あとは園に通った道を辿って我が家へ。いつもの白山神社で「保護者」たちの健康回復を祈って帰宅した。40年近く前は純農村に新住民たちが進出し始めた地域だったが、今は完全に、都心に職場を持つ人たちの生活の場としての顔しか見られない。約1時間の散策で、もと農家の庭先に見事なしだれ桜が今もなお健在であることに気づき、かつてと今とを繋ぐものがあるのだと、ほっとしたのであった。