K先生への通信

 北海道の春を告げる川柳(立ち話 手のスコップが消えて 春。)のご紹介をありがとうございました。
 先生のメールに「先生がフランスにおられるころ、資料を求めてあちこちの古書店に出かけ、帰りには、両方の手いっぱいに本をつめたバックを持って歩いて帰られた話をメールで送っていただいたのを思い出します。先生はフランスでもずいぶん歩いておられましたね。川口先生の足は大地の声をたくさん聞いていますね。」とある(*この話にまつわるエッセイは「バーゲンと乞食」と題するものであったが、部分を後掲しておきたい)のを拝読して、本年3月31日の日記の記述を思い出しました。部分ですがご紹介いたします。

 ・・・夢中になって駆け抜けた50代直前までの、埼玉大学和歌山大学勤務時代。ゼミを通して生涯の友人と呼べる若い人たちと学び、語り、世界を広げた。それ以降はフォーマルなゼミを担当することのない資格課程の学習院大学勤務。学生との学びあいによって研究課題を広げ、深めていたのとはまるで違い、研究と教育とを方法的には分離せざるを得なかった。そのまま定年を迎え、そして今日。
 研究に課題を見出せずに、このまま本当の怠け者として大学人生活の終わりを迎えるのかと諦めの心境が続いたが、2000年度一年間、サバティカルの機会を得てから、研究者人生が大きく変わった。能力もないのに書斎派こそが研究者のエリートという観念が打ち破られたのだった。(ぼくのことを)「歩く教育学者」と(揶揄的に)評する人がいたが、外国の地で言語コミュニケーション能力が無いのが幸い、目的と内容とに向かって「歩く」というのではない。「さまよい歩く」。ヴァガボン(放浪者)。そんなのが研究として許されるはずはない、だが、ぼくにとっては至高の宝物であったのだろう。「フレネ教育研究」、「セガン研究」、「パリ・コミューン研究」を産み落としてくれた。後2者は「一九世紀フランスにおける教育のための戦いーセガン、パリ・コミューン」(幻戯書房)として、(今年2月末刊行の)実を結んだ。」

 歩き回った生活が、研究だけでなく、リハビリにきわめて有効に働いていることを知りました。脚のリハビリを担当するのは行動療法士ですが、入院して2週間ほどの時に、彼が、「川口さんの脚の筋肉の付き方はすごいですね。だから機能回復が早いのですね。驚異的です。」というのです。「スポーツは嫌いですからしていません。ただ、フランスの地方都市やパリの街をひたすら歩き続けて研究をしてきています。」と、答えました。それが切り口になって、彼と豊かな会話を交わしながらリハビリを受けるという幸せな時間を持ったのでした。さて、今日のレポートです。

 今日は朝から病院行き。従って、朝のリハビリ外出は中止。
 ところで、ぼくは「病人」なんだろうか。高血圧の薬は飲んでいるからその点では確かに病人だな。後は「血が止まりにくくなりますから怪我に気をつけてください」と言われた薬の服用。これは間違いなく、再発防止のため。
 今日の病院行きは、退院して2週間経ったので、「その後の経過」を診るためで、治療をするものではない。
 いわば「病気の後遺症」との格闘の毎日。死んでしまった脳細胞が差配していた神経器官は蘇ることはない。しかし、他の神経器官を有効に活性化させることによって死んでしまった神経の働きを補完させる。そのような機能を呼び覚ますのがリハビリテーション
 こう考えるのが医学的に生理学的に正しいのかどうかは分からないけれど、今のぼくが今のぼくを説明するのには、とてもわかりやすい。
 寝起きからしばらく、身体がグニャグニャするのは、新しく役割を命じられた神経が、まだおのれの新しく担った役割を自覚し切れてないのだなあ。
 この代替神経群を今日から「マルセリーノちゃん」と呼ぶことにした。映画「汚れなき悪戯」の主題歌「マルせリーノの歌」から。高校時代に友人と四人で合唱した歌だ。
 おはよう、マルセリーノ / おめめを覚ませ / お日様、きらきら笑ってみてる / マルセリーノ、マルセリーノ / おめめを覚ませ

 夢につれられてタクシーで病院へ。予約券、診察券が必要だとは自覚が全くなかったので一悶着。これはすべて、あなた任せのぼくに責任がある。娘の機転その他のおかげで、予定通り診察。診察と言っても血圧による問診だけ。高い血圧に首をかしげる先生。「いただいた薬をちゃんと飲んでます。」とだけ申し立てた。きちんと測って記録を残しておくようにと、指導をいただく。次回は4週間後の5月12日。MRI検査が入るとか。いやだな―。
 診察を終えて夢と別行動。リハビリ室にご挨拶と経過報告に伺う。
 帰りは、今日の徒歩リハビリをかねて、病院から自宅まで徒歩。途中で東武スーパーにより、昼食用のサンドイッチ、内緒のおやつ用のピーナッツ飴を購入。思ったより時間はかからず1時間強。次回から病院への往復は徒歩で十分か。

*「バーゲンと乞食」より
 某日。ぼくはいつものお気に入りの恰好で、つまり、ごま塩よりも白さの方が不確かな割合で占めている、前頭と頭頂とがかなり薄くなっている、おまけに櫛でとかない髪と、いっさい手入れをせずに1ヶ月経った顔の髭(これがまた、疎らさがだらしない)、いつクリームで拭いただろうかと自分でもいぶかるほど手入れをしていない靴、膝の部分がふっくらと膨れあがり、ひょっとするとテカテカとしている茶色のコールテンズボン、セーターの下に着ているのは人様には見えないけれどもボタンが幾つも取れたワイシャツ、そして明らかにそれと分かる偽なめし革の、スーパーの吊しでSとサイズ表示がしてあったけれども、だぶだぶの深緑のコートといういでたちで、バーゲンでごった返す街に繰り出した。
 ぼくの目当てはバーゲンではない。古書漁りである。古書というものは行き当たりばったりで買うことが通常である。どのぐらいの量を買うかというよりは予算の上限だけを決めてアパルトマンを出る。量的に多くなることがあれば、本というものは重いので、背に大きめのリュック、そして手には頑丈な紙袋を持つ。こちらでは、簡単に破れてしまう薄いビニール袋に入れてくれるだけ、どんなに重くても大きささえあればビニール袋に入れて渡してくれる、カウンターを離れたらもう破れて本が落ちる、などということは日常茶飯事である。代わりのビニール袋をくれる店もないではないが、あまりあてにしてはいけない。そういう教訓から頑丈な紙袋をあらかじめ用意していくわけである。
 この日の古書漁りは大きな収穫があった。19世紀半ばから終わりにかけての新聞や記録など、大きな専門図書館にでも行かなければ見ることができないものがほとんどである。1年分の新聞の合冊などは厚さだけでもすさまじい。それに類したものが数冊、それにぼくの研究には欠かせない先行研究書も、図書館でも見つけることができなかった稀覯本(とぼくは思いこんでいる)、それが数冊。ちょいとおまけに、ヴィクトル・ユゴーなどの直筆手紙のコピーを集めたもの。ジャン・ジャック・ルソーの直筆手紙は、1編が日本円で90万、100万円もしていた(日本の某「超一流」国立大学が買ったと店の主から聞いた。国民の税金で買ったのだ、是非、国民に公開してもらいたい、当大学関係者あるいは関係機関の紹介を受けた者のみ閲覧可能などという差別、いや排除はやめにして欲しいものだ。日本国国民である証さえあればいいのではないか。)が、ぼくにはそういうもののオリジナルは必要がない、コピーで充分である。だけれどそのコピー本も、もう手に入らない代物。リュックに入る大きさのものは可能な限りリュックに詰め込み、リュックの手に余るものは紙袋に入れ、よっこらしょ、よっこらしょ、と歩いていた。当然のことながら、背中を丸め、バランスを取ろうとするから前屈みで、時にはフラフラしながらの歩行である。