こころ 6 再録「野生児」

 在パリ中に、K君が、Lucienne STRIVAY著 ENFANTS SAUVAGESという本をジベール書店の書棚から見つけ出してくれた。Lucienne STRIVAY(ルシアンヌ ストリヴェ)という人物の情報をまったく持っていないぼくは、この本がどのような類のものなのか、直ちには判断できなかった。ただ表表紙には映画「野性の少年」より少年が川辺で水を飲む場面が使用されていることが目を惹き、サブタイトルの「人類学的アプローチ」にはことさら興味を強く持った。2006年、Gallimard(ガリマール)刊。
 宿に戻り素読み―分かる単語だけを手引きにして大筋を理解しようとする行為―、そして索引を丹念に読んだ。索引にセガンの名が登場するので、ついでに、該当場所を読み取る努力をした。セガン実践について触れているのではなく、セガンを通した「アヴェロンの野生児」のイタール実践評価が記述されていた。セガンに関しては文献的に目新しいものは使用されていない。『1846年著書』と「1856年論文」だ。
 セガン「1856年論文」に登場するイタール実践以前のさまざまな「野生児」はもちろんのこと、それ以降現代に至るまでの「野生児」が叙述対象とされ、またカラーを含めたイラストも数多く用いられており、すこぶる付きの、興味深い内容となっている。約450ページのフランス語とあれば、読み応えがありすぎると言うより、ぼくの能力では読みこなすことができないけれど、拾い読みだけで止めるのにはもったいないと思う。
 ヒト種がヒト種以外の生物に育てられ、生命を長らえることができるなどということは、ぼくには懐疑以外の何ものにも感じられないが、本書序文で出てくる三つの単語がこの問題を考える上で重要だと思う。すなわち、1. avatar(アヴァター、「変化」)、2. fête(フェト、「祭」)、3. carnaval(カルナヴァル、「カーニヴァル」)。いずれも実在の人間社会の、「野生児」を見る「目」であり、「騒ぎ」である。それはあくまでも「異化」を仕立てることによって「同化」を強固にする方策と言おうか。このあたり、我が国の学校教育の支配的哲学と類似しているように思う。
 Lucienne STRIVAYは、ネット情報によると、ベルギーのリエージュ大学で教鞭を執るエッセイストだということだが、もう少し情報を集めたい。この本には著者情報が載せられていないようなのだ。
+++++++
 さらに深く「文明」論を深める端緒だったのに、見落としてきてしまっている。ぼくの、「歩く教育学者」になりきれてこなかった「歩くしか能のない教育研究者」たるゆえん。やっぱり怠け者なんだな。