こころ 7 葛藤

 ・・・Sの記憶にある母親は、美容院に行くのは年に一回だけだった。ほんのりと化粧をしているのを見るのも年に数回、4月と1月だけは確かだ。新しい服を買ったのを見たことはない。いつも、畑仕事を終えた深夜に、針仕事・ミシンかけをしていた。それが彼女の「新しい服」だった。使っている布地は、Sや姉の着古し、あるいは母親の実家から譲り受けたものの再加工。せいぜい、新しいもの、といっても、呉服屋にいって「端切れ」ばかりを買っていた記憶が強く残っている。洗濯とアイロン当てだけはこまめにやっていたから不潔感はなかった。「爪に灯をともす」思いをして、子どもの「教育」費を捻出していた。
姉には音楽家の道を考え、バイオリンを習わせていた。その甲斐があって、姉は、東京の某音楽大学に進み、指導教授が陰で経済的な援助をしてくれるなど(レッスン料を無料にする替わりに新弟子のレッスンを姉が担当する等)、順調に母親の「財産分与」を受けていった。姉は優れた技量を持つ音楽家として旅立つことの期待を背負っていたが、指導教授の突然の死で姉をバックアップする人脈が途絶え、彼女は音楽教師としてその後の人生を歩むことになる。姉もまた母親に似て贅沢とはいっさい無縁の人だ。
 Sはどうだったのだろう。
 知的にも体力的にも、母親の期待を受け止めることができるようになったのは、小学校中学年頃である。ただSにとって「不幸」だったのは、人間関係づくりができなかった、ということである。彼の生育史を見るとそれもやむを得ないことであると見ることができるけれども、彼の同年代の人間にとっては、やむを得ないことではなく、許し難いことさえある。Sはそれまで、できないことについては「人より遅れているから仕方がないね」といって許されたし、できたことについては「偉いねえ。よく頑張ったね。」とほめられる。家族をはじめ、教師やまわりの大人からそのように扱われ続けてきた彼が、つねに「大人の目線」で自分の位置を確かめる習慣を身につけていったけれど、同級生たちがそのようなことを許すわけがない。彼に対する「いじめ」の発端は、同級生たちと同じ目線を持つことができないでいることに対するものでもあったことは事実だろう。遊び相手にならないSが、貧困そのもので町中を歩いているとすれば、当然、「いじめ」の対象になるわけである。「できない」と言っては拗ね、「できる」と言ってはこれ見よがしに誇示する、そして、古典的な「差別」「いじめ」の対象であり続けた「貧困」を背負っている。また、同級生たちの親をはじめとする大人たちのなかでささやかれるSの母親の「噂」話。「いじめ」は必然的であった。
 学校や地域でいじめられ続けたSには、当然、ストレスがたまる。学校では読書という形で逃避し、自分の世界に入っていたし、地域では家に逃げ帰り昼間は「手の遊び」(木工・彫刻・絵画など)で自分の世界を作ることができていたから、何とか時間を過ごすことができたが、それでストレスが解消されていたわけではない。時として、そのストレスが火山の噴火のごとく爆発する。それは5年生で隣の学区に転校したことをきっかけとして、現れ始めた。
 Sの記憶にある「爆発」には、いくつかのタイプがあった。いずれも母親の、ふと漏れることばをきっかけとしていた。一つは、在日朝鮮人被差別部落の人々に対する「差別」的なことばを述べたときである。「差別するには理由がある」と言って、母親が語るのは、彼女自身が持った経験話であった。しかし、Sはその頃、母親が買いそろえてくれていた様々な文学書を次々と読みあさっていたから、在日朝鮮人被差別部落に関する「いわれなき差別」と「差別に苦められてきた歴史と現実」とを知っていた。それはまた、S自身が「いじめられている」現実から実に共感できることでもあった。母親が自身の経験以外に何も説明材料を持たないのに対して、Sは少なくとも「文学」という世界から知識と事実を得、彼自身の経験とがそれに重なっているわけである。激しい言い争いの後に母親が言うことばはいつも決まっていた。「だけど、私は、恐い。」と。そして、付け加える、「Sにおかしな思想が染みついているみたいで、もっと恐い。」と。要は母親が「差別は当たり前。理由がある」というのに対して、Sは「差別はなくさなくっちゃいけない。なくそうという意識をもたなくちゃいけない」である。この対立が明確になったとき、Sは、出口が閉ざされた思いに取り憑かれ、暴力行為に走る。
 二つは、母親が肉体労働者に対する蔑視的なことばを発したときである。「肉体労働者=粗野=無教養=落ちこぼれ」、時にはそれに「犯罪者」が付け加わることもあった。そしてやはり、「恐い」という評価を付け加える。まだ充分に歩けない頃から母親に手を引かれ、あるいは背負われて外出したとき、Sが良く指さしをして「あれ、見て。」と言うことがあった。そのたびに母親が「なにされるか分からないから、指を指すのはやめなさい」ときつく叱ることが多かった。その時はそれが何を意味しているのかは分からなかったが、度重なると、母親が、道路工事あるいは大工仕事などをしている人などに対して嫌悪の念を持っていることは、何となく分かってきた。なぜ嫌悪するのか、あるいは怖がるのか、その理由は全く分からないままでいたが、5年生の冬休みに、食事時に福沢諭吉の話になったことがある。母親は福沢諭吉の『学問のすすめ』を例に出して、「しっかり勉強すると、お金持ちにもなって、偉い人にもなれるけど、勉強しなかったら、土方になって、やがては犯罪者になる。」と語った。「犯罪者になる」はもちろん諭吉が書き及んではいないことなので、母親が付け加えたにしかすぎないけれど、Sには、「指差し」を叱責されて以来のことが直線で結びついた。「怠け者だと、土方になる」というのが母親の口癖だったけれど、そこで言う「怠け者」というのは、「学校の勉強を怠ける」という意味であることにも気づいた。Sを学校で「いじめ」ているのは、そのほとんどが「勉強ができる」人間だったし、その「手下」であった。逆に、何かとSに声をかけ、いじめっ子たちの目を盗んで相撲を一緒に取ってくれることがあったのは、勉強はあまり得意でない連中だったし、「Sチャン、あそぼ」と時々家に遊びに誘いに来てくれるのは、障害を持っていたり、被差別部落の子・在日朝鮮人の2世の子たちだった。だから、Sには、諭吉のことばは半信半疑に聞こえたし、母親のことばは、もう排斥の対象でしかなかった。やはり、このことも、家庭内暴力のきっかけとなった。以降、「勉強しなさい」ということばをきくたびに、Sは荒れ狂った。
 三つは、母親が「腐ったミカン」「朱に交われば赤くなる」「孟母三遷の教え」などの話をすることがきっかけとなった。ちょうど、与謝野晶子の伝記を読み、それにつられて夫・与謝野鉄幹(寛)の詩などを読み進めていたときである。やはり食卓の話題として与謝野夫妻の話がのぼった。母親は与謝野晶子に文学的な影響を受け、時々は趣味的に創作をしていたこともあって、ずいぶんと話に花が咲いた。Sも生き生きと与謝野晶子の獄中の苦労話などを語った。しかし、鉄幹のこととなると、母親とSは評価が異なった。「友を選ばば才長けて、云々」−母親は鉄幹の言うとおりだという。友達は自分より能力が上の者でなけりゃ、自分がだめになってしまう、というのがその説明だった。Sはそれに対して、じゃ、もし自分が一番上か下だったら、誰と友達になるのか、と詰問する。それは屁理屈だ、と母親が返す。Sに納得がいくはずはない。いつも最下位の人間であるがごとく扱われる日常のなかで(「いじめ」という事実は、このような劣等感をも植え付けていたわけである)、オレには友達ができないではないか、というのであった。ある意味、それは、Sの、母親に対する悲痛な救助信号でもあった。だが、母親は、屁理屈だ、の一言で、「腐ったミカン」論を展開する。
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