X君の公開書簡

 X君がFB上で、「恩師への手紙」を公開した。一体,今この時期に何を思うてなのかはよく分からない。進路を決めなければならないという観念と、そのためには「自立せねばならない」という観念とがなさしめたのだろうか。自立のために今ある自分を公開刑に処そうとしたのだろうか。以下、無断だが、彼を応援する意図を持って、原文を貼り付けておく。
「恩師への手紙
 先生と初めてお会いしたのは、一年次前期の教育基礎という授業でした。私にはよく質問をさせて頂いた記憶しかないのですが、先生は私が覚えていなかったエピソードを覚えていらっしゃいました。先生が「挨拶」について説諭された授業後に、私が履修登録表を持って先生の所へ行き「全ての先生方を、こんなにも多くの授業を取っているのに、覚えられるわけがない(注:一年次の履修及び修得単位数は82)」と言った、というものでした。今にして思うと、よくそんな大それた事ができたものだと我ながら思いますが、当時の私は(先生のお言葉を借りれば)「とんがって」いたそうですから、なんなくできたのでしょう。その授業で私は先生に関心を覚え、ブログを毎日拝見したり、エッセイを読んだり、といった事をするようになりました。自主ゼミの存在も知っておりましたが、一年次にはまだ入る「勇気」がございませんでした。
 そうこうするうちに二年生となりました。4月、私は勇気を出し自主ゼミに加わり、自主ゼミ古参メンバー(注:YY先輩・YZ先輩・Sさん・Nさん・Hくん)と出会ったり、本当の意味で先生と「出会ったり」しました。自主ゼミでは、当初「被り物」(外見ではなく中身において)をして過ごしておりましたが、懐の大きいゼミ生達や、何より「本来の私」に理解を示して下さった先生のお陰で、少しずつ自身をさらせるようになり、自主ゼミは数少ない「それができる場」となりました(数少ない私の「居場所」にもなりました)。この頃には、「実社会」にも少しずつ「適応」できるようになっていました(注:普通の生活はそれ以前にも送ることはできていましたが、そこには常に何らかの「ぎこちなさ」がありました。それが少しずつ消えていったという意味です)。
 しかし二年生の中頃、私は非常に大きな「IDクライシス」に襲われました。3つのとても辛い出来事が重なった為に起こった事でした(注:詳細についてはここに記すことは他の方のご迷惑となる可能性もある為できません。一つ言えるのは、その時は、この「事件」で自身の「居場所(頼れる/信頼できる人間の存在、もここでは含む)」が全く学内に無い事―当然学外も無く、自主ゼミにも事件当時はそこまでの「居場所意識」はありませんでした―を強く意識させられ、負の感情のカオス状態になった、という事です)。この頃、少しでも「自分」を外に出したくてFBを始めたわけですが、先生はこの時に私が投稿した記事を(リアルタイムで)お読みになり、即時私に「寄り添って」(オンラインでも現実でも)下さいました。先生曰く、「首をくくりそうだった」ということでしたが、確かに当時、夜中に緑道を歩いたり、夜の川岸で「無」になっていたり、計算機センターの裏の森で夜に泣き続けたり、といった事をしていました。
 (因みに、「事件」発生当日には、当時あった6限の授業中に涙や鼻水をこらえハンカチを握っている、という状態でした。他の受講生3人と先生は触れないor気付かないという対応をしていました。尚、それについては寧ろ助かりました。授業中にそこで慰められたりしていたら、溜まったものが「爆発」して、自身の自尊心が更に壊れてしまったでしょうから)。
 今もほとんど変わっていませんが、私にとって「泣きつける」程の人間が周囲にいない、そんな中で唯一手を差し伸べて下さった「命の恩人」、それが先生でした。言葉をかける、会話を交わす、共感をし「味方になる」、エッセイを下さる、そのような数々の「温かい手」で、徐々に「私」は「戻って」いきました。
 その後、三年次にも一度だけある事によって「危機」が起こりましたが、その時は「部屋での号泣」と「お言葉」という「寄り添い」/「手」で救って頂きました。
 さて、三年生になると、先生とはよく夕食をご一緒させて頂きました。数々の笑い話・お互いの話・深い話、挙げればきりがありません。夕食の内容も種類が豊富であり、かつ「お高め」な「美味しい」ものを、頂けました。お陰で私の舌は「上がった」り、その手の知識(飲食店等の知識)も一段「上がった」り、しました(いずれも主観的な思いですが)。有料トイレも覚えました(笑)。それらの出来事は、日々ストレスにさらされている(先生の比ではなかったでしょうが)私にとって「オアシス」でした。そして、少しずつ「私」を確立していくステップでもありました(まだ終わってはおりませんが)。今でも先生との一つ一つのそれらの思い出は替えのきかない大切な経験:「宝物」です。
 2年目の自主ゼミ(注:先生にとっては違っても、私にとっては「連続した」ゼミでした)では、「私がやりたい事」を全てさせて頂けました。今から思えばあんなに自由な事は、他の先生の下ではなかなかやりづらかったでしょう。「結果の評価」は色々あるでしょうが、いくつかの「夢」が実現できたのは確かでした。
 そして、先生の自主ゼミが終了し・・・、の後、あの不幸な出来事が起こりました。英国入国直後にその報(第一報)を聞いた時には、(第二報で重体ではないという情報が入ってくるまでは)呆然としたり、<驚愕・そんな・えっ・よりにもよって今・どうしよう>といった感情になったりしました。
 そして帰国後の先生の最後の御出勤日(本来であれば最終講義の日でしたね)、別れの言葉を交わしました。本当に最後なんだな、と改めて思い知りました。「別れの感情」をあそこまで強く感じたことはなかったでしょう。そういえば、先生のお言葉の中に「私を忙しさから解放してあげたかった」とあったことについて、実を今日に至るまで「そうだったのですか!?」という感想を持ち続けております。いつかまたお会いするときに詳細・真意を伺ってみたいと思っている次第です。
 最終講義の中止について、何人かの方々から「慰め」(正確には言い表せていないのでしょうが、一先ずこのようにしておきます)の言葉を頂きましたが、私の正直なところ(思い)は、「確かに中止になったことが大変残念なのは事実。しかし先生のお命があったことこそ第一であり、その事実には「残念さ」という事実は及ぶべくもない。お命に比べたら最終講義は二の次であり、最終講義を無理して行いそれで先生がお命を落とされては何の「益」にもならない(ある意味で、「本末転倒」(尊敬する人を、その尊敬を表すセレモニーで死なせるといった意味で)とも言える)。」というものです。
 今後は、「市民的お付き合い」ということになりますが、お会いできる機会は減ってしまうでしょう。それだけが残念です。
 最後まで、先生にとって私は「お荷物」・「支えていなくてはならないもの」・etc…といった具合だったでしょう。しかしそれが分かっていても、先生は私にとって、道を照らす光であり、(恐れながら)杖でもあり、理解者でありました(す、の方が適切でしょうか)。
 3年間(実質2年間)のお付き合いに心からの感謝・御礼を申し上げます。本当にありがとうございました。そして、(適切かどうかは分かりませんが、一先ずこの言葉を用います)今後とも宜しくお願い致します。
  2014年4月30日 先生との思い出が数多ある地―目白より  XY
川口幸宏 先生」