我が亡父へ


我が亡父へ
 あなたは職業軍人を人生の道に選びました。大陸で戦い、そしてフィリピンで戦い、そこで命を失いました。齢33歳であったと聞きます。あなたが徴兵されたのではなく、自らが職業として軍人の道に進んだということを教えられたのは中学2年生の時でした。「親孝行な子どもになれ」と多くの大人から強く諭されるような荒れた生活を送っていた私は、父の跡を継ごうと決意しました。学費もいらない、学歴も身につく、そして何よりも国家のために有益な人間になれる。誰からも「親不孝者」「この役立たず」とそしられることのない職業が保障された道の選択へ。…しかし、あなたの妻である母が、身体を張ってぼくの決意を翻させようとしました。なぜ?戦時中は毎朝水垢離をし、護国神社の清掃で戦勝祈願、神国繁栄を強く願い、ぼくが幼い頃はあなたの武勲ぶりを熱く語ってくれた母が、なぜ? 母は軍人の妻であると同時に国民学校の教師でした。
 あなた方お二人して「皇国日本」の支柱でしたね。息子がその後を継ぐという決意をし、行動に移そうとした時、なぜ、身を挺して、それを妨げたのでしょう。
 戦争は,前線の兵士ばかりでなく、「留守」をあずかるほとんどの人をも苦しめました。鉄砲玉が飛んでこなくても、命を失うことがじつに多かったのです。特に乳幼児を襲う「栄養失調」。あなたの息子も、戦時中に限らず戦後しばらくも、栄養失調のために「幸宏さん、まだ生きとんのか?」と親戚から問われる情況があったそうですよ。私の「育ち」の悪さは体育、知育、徳育というすべてに顕れ、母は、幾度私と一緒に死のうかと試みたかわからないと、晩年に語ってくれました。その後遺症は、現在もなお、私を苦しめています。
 あなたが職業軍人の道を選んだのは、多産な貧乏農家の三男坊であったために、特に働きに出る口も見つからず、財産分けもなく、仕方なく選んだのだそうですね。あなたの長兄、つまり叔父から聞かされました。軍隊が命と引き替えに貧乏を救済したと言って、さみしそうに笑っていました。そして、「幸宏さん、戦争だけはあかんで。軍隊はいらん。そんなもんで労働市場を満たそうという国家戦略の犠牲に若い人を追いやるのは、もうあかんで。」
 その叔父の言葉と、母があなたの遺影に向かって「頼むわ、幸宏を、止めてんな。なあ、お願いや。」と涙を流して手を合わせている姿を見て、ぼくは、戦争の道に進むのを止めたのです。
 我が父よ、今我が国は、あなた方をさんざ苦しめたあの道が、とてもすばらしかったと憧憬している人たちに蹂躙されています。戻りません、あの道に、という決意溢れる勇敢な人々の強い後押しを、お願いします。
―2014年5月3日憲法記念日にて    愚息拝