学生の心の中を引っ張り出す

 ぼくがもう30年以上も前からささやかな教育方法として導入している「感想・意見その他」を自由意志で書いて提出させる出席票のことを、大学という世界の、ぼくにとっての「世間」では、リアクション・ペーパーと呼ぶことを知ったときの驚き。自分の授業内容・方法に対してどのようなリアクションがあったかを知りたい、という高みの見物として、ぼくは扱ってきていない。いや、高みの見物ではないぞな、次の授業を組み立てる参考にしてるんや、という反論をいただくだろうが、そうそう参考になることなど、「書いてくれません」のではございませんか?
 確かに、リアクションという見方で読んでみると、ある程度お利口ちゃんでここまで生きぬいてきた(あくまでも「学校」という世間・価値から見てね)学生たちは、多く、こちらが書いてほしいなと願うようなことを見抜いて書いてくる。本当にそう考えているかどうかは別だ。で、ぼくは、「いつもの出席票です。」とだけ言って配布する。「今日はあまり時間がないね」というと白紙が多く提出される。先週のある授業などは、たった1人、「先生はせっかちで私たちにゆっくりと考える余裕を与えてくれません」と書いてきた。ん、たしかに・・。
 毎授業のはじめに、「リアクション」を何枚か読み上げる。一つは先週の授業の復習のため。だから、あらすじが分かる「リアクション」を読む。3枚も読めば授業内容のおさらいができる。二つは、言ってみればぼくと同化している声。2枚程度で十分。最後に、ぼくと異化している声。これは5枚程度か。
 知識として覚えなければならないことと、その知識を使って思考することとをしっかりと区別する。その思考の内容、あるいは方法は多様であってよい、それを分かってもらいたいための、試みである。ただ、思考は多様であってよいと言っても、自己内遊戯はお断りの看板を立てる。思考内容、方法を他者に説明する力を求める。なぜなら、それが教員としての資質だから。なんたって、ぼくの授業は教員免許取得のために必要なものばかりだからね。
 授業がどんどん進んでいくと、自己内遊戯もどんどん増えていく。そろそろ、自己内遊戯は本人にとって大きな意味を持つとしても、他者とのコミュニケーションツールに仕立てるには何が必要かを提起しなければならない時期に差し掛かる。
 「君がこれまで経験してきた学校教育をイメージして教師になろうとしているけれど、君がこれまでどれほどの同世代の人を蹴飛ばし排除してきたかを考えてる?あるいはその逆も。それらすべてが日本の学校であるし、そうした学校の教師になろうというわけね。君の経験知が絶対に通じるところってありませんね。」
 この時期を越えると、ぼくとは違った世界が論理的に説明される「声」を多く学生達に紹介することができるのだ。