「筏師」ということ


 この「筏師」というのは、「セガン」研究の場合、「筏を操縦する人」という語義でのみ理解してはならない。フランスの近世から近代初期にかけて独自に存在する歴史概念である。
 パリの冬は長く凍てつくような寒さである。そのパリの人々の暖に供されるのが薪材。もちろん、薪材はパリでは産出されない。薪材に適した樫の木が地方からパリに送られる。距離の長い交通手段がせいぜい馬の時代、馬車で陸路をがたがたと、薪材を運んでいた時代が長く続く。12世紀頃からは、例えば、ヨンヌ川の支流に、山から切り出された薪材がそのまま流され、ヨンヌ川とセーヌ川とが交わるあたりで薪材は引き上げられ、馬車でパリに運ばれるようになった。「運を天に任せる」ようなものである。
 16世紀頃、伝承ではパリの材木商(薪材商)ジャン・ルーヴが、薪材の産地にほど近いところで、薪材一本一本を「筏」に組み、その「筏」を操縦してパリに運ぶ、という方法を編み出した(後注)。「筏」といっても、高さが2メートルにもなる大建築物である。その「薪材」から「筏」に組み込む「建築」の一大拠点がセガン生誕の地クラムシーであり、「建築」の「指揮者」であり「筏」の「操縦者」でもあるのが「筏師」である。「筏師」たち―ほとんどが季節労働者―家族が生活するところはクラムシーの城壁の外フォブールであった。その地を地元の人は「バヤン」と呼ぶ。今も筏師家族の居住した住居が並び立っている。拙著にその風景写真を収載した。
 「薪材商」は地方の大ブルジョア、「筏師」は貧困者階級を絵に描いたようなもの。セガンの父方は「薪材商」を営んでいた。
 「筏師」という職人が歴史から姿を消すのは19世紀末のことである。写真は最後の筏師肖像。筏師の正装である。

(注)Jean ROUVET. 彼の胸像がクラムシー橋(現ベトレーム橋)中央欄干に建立され1828年10月26日に除幕式が施行された。正面に「1549年に筏流しを発明した人、ジャン・ルーヴへ」と刻まれた(Frédéric MOREAU, Histoire du f lottage en trains. Jean ROUVET et les principaux flottaeurs anciens et modernes, Chez DAUVIV et FONTAINE, Paris, 1843. pp.16-17.)。しかし1945年には筏師の立像(現況)に置き換えられた。同書に数多く引用されている資史料によれば、ジャン・ルーヴは16世紀パリの豪商であったという。また、ジャン・ルーヴを以て筏流し発明の始祖とするのは誤りであると同書は述べているが、またそうするのが近年の研究動向である(Emille GUILLIEN, Quand la <> du Morvan descendait à Paris Première Partie : les courues du Morvan au Vaux d’Yonne, Les Traîne-Bûches du Morvan, 2007. ほか参照)