川口教育学?ありうるのかなあ。

 苫小牧の笠原先生に、昨日綴った「我が亡父へ」をメールでお送りした。早速ご返事いただいた。その中の一節。
「先生のお便り、胸いっぱいにして読ませていただきました。川口先生のお父様が軍人でいらっしたことはいつか聞いた気がしますが、こういうお話は本当に初めてで、川口先生の平和への思いの本物がここから来ているんだと胸いっぱいにして読ませていただきました。川口先生が生活つづり方を語る時も、平和を語る時もハンディキャップの子どもの発達の研究史をわれわれに説いてくださる時にも単なる理論ではなく、なにか胸にずっしりと来るものがあるのは、先生の生きてきた人生の重みが川口教育学の根っこにあるからなのですね。」
 定年退職と共に失った作業能力。頭は働くのだが作業能力の無能とが連動するのか、意思の能力を鮮明にすることができないでいる現状。このぼくが何を生き甲斐にしていくのか、混沌として前を向くことができないでいる。応援してくれる人がたくさんいることではだめなのか、という説諭を受けたが、「ぼくは何ができるのか」がわからないぼくにとって、応援は重荷にさえ感じる。「ぼくができること」に対して応援が,もしいただけるのなら、ほしいのだ。存在することに意味があるというのは思想であって実践ではない。
 笠原先生は「・・・への思いの本物」という言葉を使われた。ドキンと来た。ぼくの書く「理論」は日本刀の切れ味ではない、と志摩陽伍先生からご批評をいただいたことがある(『子どもが生きる教育の創造』に対して)。ぼくが「科学者である」と名乗ることのできない劣等感であり続けた源だ。しかし、もう、社会的立場は職業科学者ではなくなったのだから、「日本刀の切れ味」でなくていいだろう。「本物」でありさえすれば。それをもし、川口教育学と呼ぶことが許されるなら、ぼくは、それを目指して、いや目当てとして、これから残された命を営んでいこう。それが孤立した作業であろうとも、ぼくが存在する意味となる。いや、なってほしい。

我が亡父へ


我が亡父へ
 あなたは職業軍人を人生の道に選びました。大陸で戦い、そしてフィリピンで戦い、そこで命を失いました。齢33歳であったと聞きます。あなたが徴兵されたのではなく、自らが職業として軍人の道に進んだということを教えられたのは中学2年生の時でした。「親孝行な子どもになれ」と多くの大人から強く諭されるような荒れた生活を送っていた私は、父の跡を継ごうと決意しました。学費もいらない、学歴も身につく、そして何よりも国家のために有益な人間になれる。誰からも「親不孝者」「この役立たず」とそしられることのない職業が保障された道の選択へ。…しかし、あなたの妻である母が、身体を張ってぼくの決意を翻させようとしました。なぜ?戦時中は毎朝水垢離をし、護国神社の清掃で戦勝祈願、神国繁栄を強く願い、ぼくが幼い頃はあなたの武勲ぶりを熱く語ってくれた母が、なぜ? 母は軍人の妻であると同時に国民学校の教師でした。
 あなた方お二人して「皇国日本」の支柱でしたね。息子がその後を継ぐという決意をし、行動に移そうとした時、なぜ、身を挺して、それを妨げたのでしょう。
 戦争は,前線の兵士ばかりでなく、「留守」をあずかるほとんどの人をも苦しめました。鉄砲玉が飛んでこなくても、命を失うことがじつに多かったのです。特に乳幼児を襲う「栄養失調」。あなたの息子も、戦時中に限らず戦後しばらくも、栄養失調のために「幸宏さん、まだ生きとんのか?」と親戚から問われる情況があったそうですよ。私の「育ち」の悪さは体育、知育、徳育というすべてに顕れ、母は、幾度私と一緒に死のうかと試みたかわからないと、晩年に語ってくれました。その後遺症は、現在もなお、私を苦しめています。
 あなたが職業軍人の道を選んだのは、多産な貧乏農家の三男坊であったために、特に働きに出る口も見つからず、財産分けもなく、仕方なく選んだのだそうですね。あなたの長兄、つまり叔父から聞かされました。軍隊が命と引き替えに貧乏を救済したと言って、さみしそうに笑っていました。そして、「幸宏さん、戦争だけはあかんで。軍隊はいらん。そんなもんで労働市場を満たそうという国家戦略の犠牲に若い人を追いやるのは、もうあかんで。」
 その叔父の言葉と、母があなたの遺影に向かって「頼むわ、幸宏を、止めてんな。なあ、お願いや。」と涙を流して手を合わせている姿を見て、ぼくは、戦争の道に進むのを止めたのです。
 我が父よ、今我が国は、あなた方をさんざ苦しめたあの道が、とてもすばらしかったと憧憬している人たちに蹂躙されています。戻りません、あの道に、という決意溢れる勇敢な人々の強い後押しを、お願いします。
―2014年5月3日憲法記念日にて    愚息拝
  

沈思黙考

☆「自己内対話」(4月30日)記事を蒸し返すようだが・・・・。
☆さて、ぼくのこれからの生きる目当ては何だろう。毎日散歩を楽しんでいる。しかしそれは目当てではない。新しい何かを探さなければならないのだなあ。間違いなく、ぼくの存在が「重い」と感じている空気もあるから、きっぱりとけりをつけなければならないと感じてもいる。
☆精神と肉体との乖離がこれほど自分のあり方にのしかかってくるとは、考えてもいなかった。ぼくが入院した時、痛みや苦しみというものは全くなかった。つまり、意識的存在としてのぼくはまったく変わらないのだ。あたかも「死からの生還」というようなとらえ方でぼくを見舞って下さる方々が多い。少なくとも、ぼくの精神における「ぼく」は寸分も変わっていない。ただ、ぼくの肉体における「ぼく」はまったくの無能と化した。「あっち向いて、ほい!」と「意識としてのぼく」が「肉体としてのぼく」にいくら命令しても、ぴくりとも動かなかったのが入院当初。リハビリによって肉体的存在であるぼくに少しの意識が目覚めはじめた。しかし、くやしいほどに精神と肉体とは乖離したままだ。精神は老練、肉体はまだ乳飲み子。この状態で「目当て」をどう具体化しようか。
☆要はオレは甘ちゃんなんだな。さてどうする。とりあえず、今日の時間、何をする?

豊住野馬土手探索〜迷爺の巻

 午前9時30分出発午前11時30分帰宅 6900歩

 経路:自宅→白山神社お詣り→豊住1丁目→常盤台→永楽台→豊住1丁目→自宅 太字部分が豊住野馬土手を取り囲んでいる。後でわかったこと。東武線が土手の端を走っているので、踏切があるが、その近くにこんな標識。野馬土手跡だと知っていなかった時には,このあたりに乗馬場があるのかしら、それにしてもなあ、と思っていたのだが、地域行政の「しゃれ」だったんだな。なかなかいいしゃれではあります。
土手跡の周囲に沿ってひたすら歩いた。史跡だと示す標識は見当たらず、ある立派なお宅が土手に食い込んで建てられているのを見ると、このMというお宅の私有地なのだろうか。土手にはシュロの木が生えていたり、竹藪になったりと、うっそうとしていて、中をうかがい知ることができなかった。かといって、下手に枝払い、下刈りなどの手入れをすれば、たちまちのうちに壊されてしまうのだろう。周辺の住宅街の人の中には、こうやってちゃんと「乗っ取り」を謀っている者もいるのだから。


 どんどん開発が進み、農地のノも無くなったこの地域で、こうした歴史遺跡が残されていることそのものが、奇跡のようにさえ思えてくる。炎天下、さまよい歩きながら、さてぼくが歩いているのは、土手の内なのか外なのか、遙か昔の江戸時代中期の広大な野原で悠然と草を食んでいる軍馬の群れを空想した。そしてその軍馬の命を狙う凶暴な生き物たち―ニホンオオカミなど―、そして馬の命を守り育てる下級役人や無償奉仕させられていた地域の農民たちの「息づかい」はどのようなものであったのか、との思いを馳せた。

 残された土手の先端はこのようになっている。
 ☆沈思黙考につづく

自力で都内に入った。

 午前9時自宅を出る→郵便局→新柏船橋→下総中山→秋葉原御徒町→吉池→御徒町秋葉原→下総中山→船橋新柏→午後5時帰宅 9600歩
 2月18日姫さまと浅草でささやかな出版記念会を催して以来の自力東京遊歩。その1ヶ月後の3月17日の最後の出勤はタクシーと田村君の運転する乗用車頼みだったから、自力ではじつにに2ヶ月ぶりのことになる。
 自宅から新柏までが歩行が苦痛であった他は左脚の脱力と戦うことはあったにせよ、さほど苦痛は覚えなかった。船橋―下総中山間は座れず。立って電車に乗ることも経験したわけだ。
 吉池ビルはユニクロ等の店が大半を占めており、そこに若い客が押し寄せていた感じ。ぼくが目的とした鮮魚関係の店は1階と地階。あまり若い人はいなかったが、賑わい。そこで、生シラス等を購入。もう一つの目的は、<あの>美味しい寿司の店。9階。高齢者がかなり多く満席だった。寿司を握るコーナーはあったが,店の飲食フロアーは色んな料理の大衆レストランという感じ。トドちゃんと「上京祝い」で、寿司をいただく。美味しかったです。
 目的を果たし満足して帰路に着く。これでまた一つ、行動が広がった。次回は浅草行きのお世話をトドちゃんにお願いした。