だから先行研究の批判を具体的に綴らないのだ

 体が少々元気になったとたん、むくむくと、ある怒りがこみ上げてきた。新たに思考する必要がないことなので、きっと、すらすらとキータッチは流れるがごとく進むことでしょう。
 大学院生時代、先輩から、「先行研究批判を必ずやりなさい。それが自身の研究のオリジナリティとなるのです。先行研究批判を具体的に書きなさい。」を口を酸っぱくして言われた。先行研究の「あら探し」とでもいうべきことも含めて「クリティーク」にいれざるを得ない心境に追い込まれていた。論文の序(序章、はじめに)は、必ず、「先行研究の到達と批判、そして今日の課題」を綴った。
 そういう研究姿勢を持って生き抜いてきた(?)ぼくに、「きつい」「怖い」という世評がかけられていることに気付くようになる。そういう世評は、ほとんどが、日常のぼくと接触のない、研究会等での討議から生み出される人格批評である。要は、研究的世界であっても、まあまあ、が求められているということだ。先輩からは研究とは冷徹なまでに研ぎ澄まされた批判的活動であると教えられていたわけだが、現実では「100の内99までは誉めて褒めそやして、最後の1にいたって、こっそりと真意を言う」という社交術によって、研究社会が成立しているということを、学会や研究会等で知るにいたり、ぼくは、絶望した。要するに社交術としての研究でしかない。そこには、科学が成立する隙間もない。機会があって若い人の論文を読むと、なるほど、「先行研究批判」は消えて無くなっている。独白とでもいおうか。研究が成立する客観性など無関係。いらいらさせられ続けてきた。
 さて、ぼく自身のこと。具体的には書けないが、学会等の活動をすっぱり止めたためだろう、研究物を公的に発表する機会はぐんと減った。せめて自身の運営するHP上で研究を発表することだけは続けている。今回著作物として出版に到った「セガン研究」も、もとはといえば、HP上で発表してきたものがベースとなっている。拙著にはほとんど入れることができなかったが、「セガン」の著作に関する「誤訳」や、「セガン」の史料に関する「誤読」や、「セガン」の成立基盤に関する時代的社会的バックグランドの「誤認」などを含め、「先行研究批判」は遠慮仮借無く綴ってきた。ある方がそれを目にとめ、「それに関しては後ほど申し述べます。」と言ってこられたが(「誤訳」)、それからもう3年になるが何も言ってこられない。察するに「史料を発見したという努力成果をきちんと評価しなさい。」と言いいたいのだろうと、思う。確かにそうだろう、しかし、それを誤った理解をして公表したとしたら、それは「発掘」になるのだろうか。史料を所有しない他者からすれば、「発掘者」を介して提示された資料そのものに意味があり、それが「誤訳」だとすれば、「史料」の意味は全くない。
 今更こんなことを書くのは、近頃発表された「セガン」論に、ぼくが検証したのとは遙かに異なる世界に住む旧態然たる「セガン」が描かれていたことに、端を発する。その著者に、本来なら、「敬愛してやまない○○先生へ、先生のご業績に対し、恐れながら、常日頃肯首満足して学ばせていただいております**と申します。云々。」という枕詞―書簡の大半をそれで占める―を書くことがこの世界の「常識」であることをすっかり失念し「研究的書簡でありますので、単刀直入に本論に入らせていただきます。」と書き、「お書きになったセガン像すべてに疑念がある。ご論文には拙著も注記で紹介しておられるので、著者としては拙著をお読みいただいた上での論述であるとの前提から、以下、一つだけ、その論の成立根拠とするところをお伺いしたい。」と質問(&反論)を申し上げた。いただけないかもしれないと思っていたが、ありがたくも畏くもご返信を賜った。曰く、厳しい批判で恐れ入る、拙著は読んでいない、そもそもどれほど苦労して「セガン」原著を入手したか、それが「セガン研究のために回り回った」か、そういったことをきちんと評価すべきではないか、等。
 いや、40年前にご苦労して「原著」を入手されたとしてもですね、その「原著」に綴られているある事柄を何故今回のご論稿のような分析結果になったのか、その何故の部分をお訊ねしているのだから、そこをお応えいただきたいものだ、とつぶやいたし、第一、先生がご苦労して入手された「セガン原著」は、この世には「回り回った」かもしれないけれど、ぼくの所にはそれが存在するという情報さえ回ってこなかったが、このことについては先生に対しては口を噤むことにした。端から、おまえは無礼なヤツだ、という姿勢でかかってきていると思えてしまうからだ。
 その先生をはじめ、我が国の「セガン研究者」の立論が如何に史実から離れているか、そのことについては繰り返し綴ってきているから、それをそのままお送りしようかとも思ったが、「先行研究に見るセガン像」のみを綴った―今回の書簡の宛先となった人の研究紹介が主軸―某研究会提出レポートをお送りした。今日に到るも、返信は頂戴していない。未来永劫、来ないだろう。先の「誤訳」先生と同じように。
 拙著刊行にあたって、先行研究論文一覧をかなり限定して掲載した。本文中に先行研究批判をほとんど載せなかったからということもあるが、後に続く人たちに参考になるような研究ではないと判断したからだ。しかし、拙著が、出版にあたって期待されたような『啓蒙書』ではなく、本来的な『研究書』であったとしたら、もちろん、誤認オンパレードの先行研究一覧を載せていた。それで大恥をかくのは先行研究者だけれど。「講釈師、見てきたような嘘を言い」と揶揄されること必定なのである
 ぼくをセガン研究に導き入れた某先生が「セガンでドクターを取った人が言っているのですよ。それが間違っているというのですか。」というような世界なのだ、今日の研究界は。やはりぼくには住みにくい。