無批判引用をしてしまいそう

 『「パリの秘密」の社会史』(2004年)の著者小倉孝誠が著した『パリとセーヌ川』(中公新書)の精読をはじめた。「19世紀」パリが舞台とされているからであること、『「パリの秘密」の社会史』からセガンが活躍した時代のパリをかなり具体的に表象することができたと感想を持っているからであること、そして姫さまから「筏師が登場しますよ。」との示唆を得たことからである。
 さて、その筏師登場−果たして筏師なのか?32ページには図版で「セーヌ川を下る筏」が示され、次のページすなわち33ページで、アルフォンズ・ドーデの小品『ベル・ニヴェルネーズ号』が登場する。「フランス中部ニエーヴル県の町クラムシーに居を構える船乗りルヴォー一家の生活」を綴った作品で、ルヴォーは周辺で伐採された木材を舟で首都まで運ぶことで生計を立てている」と説明されている。一読後はなんの疑問も持たずに、フロトゥール(flotteur:筏師)・ルヴォーだと思い、これからのぼくの研究にとってはあたるべき重要文献だと思い、入手方をあれこれ探索した。そして、フランス国立図書館アーカイヴズから原作をダウンロードした。短編である。添えられているカット絵を通して見ていて、おや?と考えさせられた。「筏」はまったく描かれていないのである。いわゆる川船生活者が描かれている。これはぼくの望んでいる作品では無いのだろうとさえ思えてきた。詳細は入試期間で読み、知ることができるはずである。
 ドーデといえば「最後の授業」という「言語」と「国家」の問題に関わる感動的な作品を生み出した作家として、ぼくは知ってきた。しかし、「最後の授業」とて、歴史と国家との織りなす物語としては偽造されていると見た方が適切な作品、それ故、昨今「最後の授業」はあまり教育的教材としては扱われない。もう少し丁寧な言い方をすれば、「最後の授業」中の「アメル先生」の言葉として語られている「たとえ民族が奴隷の身にされようとも、自分の国の言葉を守ってさえいれば、牢屋の鍵を握っているようなものだ。」は、ドーデの文学の師アルフレッド・ミステラルの語の剽窃だともされている。そう、ミステラルとは、数日前のブログに登場した地域語保存運動に大いに力のあったノーベル文学賞受賞者のこと。
 いろんなことが頭の中を駆け巡る。