こころ 8 呆れと怒り

 「新聞」という形式・方法を用いてパリ・コミューン研究とジャーナリズム研究を進めると公言したラ・コミュヌ・ド・パリ研究会機関紙『エコール・ド・ジュゥルナリズム』は、その記事に虚偽が多くある。それを問いただす質問状を幾たびか出したが、返信をいただいたことはない。さらに記事訂正をしたという情報も伝わってこない。
その1 編集者(兼記者)がパリに滞在した折、パリ・コミューン関係の資料を入手したという記事に関わって。この「新聞」の編集同人の口を通じて(第18号「てっちゃん」筆の「ひとど」欄)で「このパリコミューンの政府が、『日刊紙』を出したんです。A4一面の紙面です。その現物を100枚買ってきた」とある。パリ・コミューン議会(政府)の存在はわずか72日間。日刊紙であるというのなら72号で終わっているはず。この数字のマジックは?紙型(判型)が「A4一面の紙面」?はて。「現物」を買ってきた、とあるから、ははーん、合冊再版コピー版のことだな。史資料のクリティークさえできないで、何が「ジャーナリズム」研究だ。
その2 第29号 コミュヌ人国記(21)「1871年1月22日コミュヌを作る」とあるが、以下の点が不明。要は,編集者がla communeをとてつもなく社会進歩を促したものだと信じているだけのことなのだけど。「この表現にある実質がどのようなものなのか、不明。1.どこに? 2.行政組織(地方自治体)であるcommuneとの異同は? 3.「パリ・コミューン」との関係は? (時期的には直接関係ないが・・・)」
その3 「パリ・コミューンは思想・信条・言論の自由があった」旨記事に対して。嘘もほどほどにされたい。史実をねじ曲げるのが「研究」なのか? 以下が史実として確認できる。『パリ・コミューン議会議事録』より:「出版の自由の原則は敵軍の利に有利になるような新聞がパリに存在することを許容しない故に、『ビヤーン・ピュブリーク』紙、『スワール』紙、『クロッシュ』紙及び『オピニオン・ナシオナール』紙を発行禁止とする。」 パリ・コミューン広報紙第3年109号(1871年4月19日号)より:「パリ・コミューン議会は、攻囲されたパリで内乱を公然と鼓舞し、敵に軍事情報を与え、共和国防衛に対して中傷を喧伝するジャーナリズムを黙認することはできないことに鑑み、『スワール』『クロッシュ』『オピニオン・ナシオナール』『ビヤーン・ピュブリーク』各紙の出版禁止を決定した。」
などなど・・・・
歴史をねつ造してまでパリ・コミューンは正義であった、無謬であった、という立場には、とても同調することができない。


 

 

身体はおもしろくないが頭はおもしろくなってきた

 6時40分出発 8時20分帰宅 5400歩
 「奇跡的に残っている」という野馬土手を目指して出発。今日の徒歩コースは児童公園、今谷刑場跡を通り、バス通り(光が丘路線)、そして旧水戸街道(県道261号)に入り松戸方向へ。さすが街道筋と言おうか、欅の巨木が道筋に並び、ちょっとした狭い公園ゾーンを形成している。今のぼくにとっては非常にありがたい「お休みどころ」である。
 
 すでに柏市を超えて流山市に入っている。地名は「向小金」。この辺り一帯が、江戸時代、幕府の軍馬が放牧されていた広大な小金牧の一つ上野牧(かみのまき)だったわけだ。次の写真の正面奥道路沿いの右手あたりが濃い緑ゾーン。あれが今日目ざすところの「奇跡的に残っている」野馬土手跡なのか?続く写真は緑地ゾーン。 

 
 
 すべて個人所有になる。きれいに整地せずほぼ原型のままにして広大なお庭の一角に残されている。小さな祠が祀られていた。まさに「奇跡的」である。原型のままとは言ったが、林が手入れされていないと言うだけであり、「土手」の形を確認したわけではない。個人のお宅の庭に入り込んで調査するほどの知識も度胸もない。
 心を残し、かつて行った松ヶ丘へと心を走らせ、お詣りに鎮守様に立ちより、帰路に着いた。
 それにしても、左脚の脱力の強いこと。そして、左手も。今日は退院して1ヶ月。脳梗塞の再発はないが、この無力感は、いつまで続くのだろうか。

こころ 7 葛藤

 ・・・Sの記憶にある母親は、美容院に行くのは年に一回だけだった。ほんのりと化粧をしているのを見るのも年に数回、4月と1月だけは確かだ。新しい服を買ったのを見たことはない。いつも、畑仕事を終えた深夜に、針仕事・ミシンかけをしていた。それが彼女の「新しい服」だった。使っている布地は、Sや姉の着古し、あるいは母親の実家から譲り受けたものの再加工。せいぜい、新しいもの、といっても、呉服屋にいって「端切れ」ばかりを買っていた記憶が強く残っている。洗濯とアイロン当てだけはこまめにやっていたから不潔感はなかった。「爪に灯をともす」思いをして、子どもの「教育」費を捻出していた。
姉には音楽家の道を考え、バイオリンを習わせていた。その甲斐があって、姉は、東京の某音楽大学に進み、指導教授が陰で経済的な援助をしてくれるなど(レッスン料を無料にする替わりに新弟子のレッスンを姉が担当する等)、順調に母親の「財産分与」を受けていった。姉は優れた技量を持つ音楽家として旅立つことの期待を背負っていたが、指導教授の突然の死で姉をバックアップする人脈が途絶え、彼女は音楽教師としてその後の人生を歩むことになる。姉もまた母親に似て贅沢とはいっさい無縁の人だ。
 Sはどうだったのだろう。
 知的にも体力的にも、母親の期待を受け止めることができるようになったのは、小学校中学年頃である。ただSにとって「不幸」だったのは、人間関係づくりができなかった、ということである。彼の生育史を見るとそれもやむを得ないことであると見ることができるけれども、彼の同年代の人間にとっては、やむを得ないことではなく、許し難いことさえある。Sはそれまで、できないことについては「人より遅れているから仕方がないね」といって許されたし、できたことについては「偉いねえ。よく頑張ったね。」とほめられる。家族をはじめ、教師やまわりの大人からそのように扱われ続けてきた彼が、つねに「大人の目線」で自分の位置を確かめる習慣を身につけていったけれど、同級生たちがそのようなことを許すわけがない。彼に対する「いじめ」の発端は、同級生たちと同じ目線を持つことができないでいることに対するものでもあったことは事実だろう。遊び相手にならないSが、貧困そのもので町中を歩いているとすれば、当然、「いじめ」の対象になるわけである。「できない」と言っては拗ね、「できる」と言ってはこれ見よがしに誇示する、そして、古典的な「差別」「いじめ」の対象であり続けた「貧困」を背負っている。また、同級生たちの親をはじめとする大人たちのなかでささやかれるSの母親の「噂」話。「いじめ」は必然的であった。
 学校や地域でいじめられ続けたSには、当然、ストレスがたまる。学校では読書という形で逃避し、自分の世界に入っていたし、地域では家に逃げ帰り昼間は「手の遊び」(木工・彫刻・絵画など)で自分の世界を作ることができていたから、何とか時間を過ごすことができたが、それでストレスが解消されていたわけではない。時として、そのストレスが火山の噴火のごとく爆発する。それは5年生で隣の学区に転校したことをきっかけとして、現れ始めた。
 Sの記憶にある「爆発」には、いくつかのタイプがあった。いずれも母親の、ふと漏れることばをきっかけとしていた。一つは、在日朝鮮人被差別部落の人々に対する「差別」的なことばを述べたときである。「差別するには理由がある」と言って、母親が語るのは、彼女自身が持った経験話であった。しかし、Sはその頃、母親が買いそろえてくれていた様々な文学書を次々と読みあさっていたから、在日朝鮮人被差別部落に関する「いわれなき差別」と「差別に苦められてきた歴史と現実」とを知っていた。それはまた、S自身が「いじめられている」現実から実に共感できることでもあった。母親が自身の経験以外に何も説明材料を持たないのに対して、Sは少なくとも「文学」という世界から知識と事実を得、彼自身の経験とがそれに重なっているわけである。激しい言い争いの後に母親が言うことばはいつも決まっていた。「だけど、私は、恐い。」と。そして、付け加える、「Sにおかしな思想が染みついているみたいで、もっと恐い。」と。要は母親が「差別は当たり前。理由がある」というのに対して、Sは「差別はなくさなくっちゃいけない。なくそうという意識をもたなくちゃいけない」である。この対立が明確になったとき、Sは、出口が閉ざされた思いに取り憑かれ、暴力行為に走る。
 二つは、母親が肉体労働者に対する蔑視的なことばを発したときである。「肉体労働者=粗野=無教養=落ちこぼれ」、時にはそれに「犯罪者」が付け加わることもあった。そしてやはり、「恐い」という評価を付け加える。まだ充分に歩けない頃から母親に手を引かれ、あるいは背負われて外出したとき、Sが良く指さしをして「あれ、見て。」と言うことがあった。そのたびに母親が「なにされるか分からないから、指を指すのはやめなさい」ときつく叱ることが多かった。その時はそれが何を意味しているのかは分からなかったが、度重なると、母親が、道路工事あるいは大工仕事などをしている人などに対して嫌悪の念を持っていることは、何となく分かってきた。なぜ嫌悪するのか、あるいは怖がるのか、その理由は全く分からないままでいたが、5年生の冬休みに、食事時に福沢諭吉の話になったことがある。母親は福沢諭吉の『学問のすすめ』を例に出して、「しっかり勉強すると、お金持ちにもなって、偉い人にもなれるけど、勉強しなかったら、土方になって、やがては犯罪者になる。」と語った。「犯罪者になる」はもちろん諭吉が書き及んではいないことなので、母親が付け加えたにしかすぎないけれど、Sには、「指差し」を叱責されて以来のことが直線で結びついた。「怠け者だと、土方になる」というのが母親の口癖だったけれど、そこで言う「怠け者」というのは、「学校の勉強を怠ける」という意味であることにも気づいた。Sを学校で「いじめ」ているのは、そのほとんどが「勉強ができる」人間だったし、その「手下」であった。逆に、何かとSに声をかけ、いじめっ子たちの目を盗んで相撲を一緒に取ってくれることがあったのは、勉強はあまり得意でない連中だったし、「Sチャン、あそぼ」と時々家に遊びに誘いに来てくれるのは、障害を持っていたり、被差別部落の子・在日朝鮮人の2世の子たちだった。だから、Sには、諭吉のことばは半信半疑に聞こえたし、母親のことばは、もう排斥の対象でしかなかった。やはり、このことも、家庭内暴力のきっかけとなった。以降、「勉強しなさい」ということばをきくたびに、Sは荒れ狂った。
 三つは、母親が「腐ったミカン」「朱に交われば赤くなる」「孟母三遷の教え」などの話をすることがきっかけとなった。ちょうど、与謝野晶子の伝記を読み、それにつられて夫・与謝野鉄幹(寛)の詩などを読み進めていたときである。やはり食卓の話題として与謝野夫妻の話がのぼった。母親は与謝野晶子に文学的な影響を受け、時々は趣味的に創作をしていたこともあって、ずいぶんと話に花が咲いた。Sも生き生きと与謝野晶子の獄中の苦労話などを語った。しかし、鉄幹のこととなると、母親とSは評価が異なった。「友を選ばば才長けて、云々」−母親は鉄幹の言うとおりだという。友達は自分より能力が上の者でなけりゃ、自分がだめになってしまう、というのがその説明だった。Sはそれに対して、じゃ、もし自分が一番上か下だったら、誰と友達になるのか、と詰問する。それは屁理屈だ、と母親が返す。Sに納得がいくはずはない。いつも最下位の人間であるがごとく扱われる日常のなかで(「いじめ」という事実は、このような劣等感をも植え付けていたわけである)、オレには友達ができないではないか、というのであった。ある意味、それは、Sの、母親に対する悲痛な救助信号でもあった。だが、母親は、屁理屈だ、の一言で、「腐ったミカン」論を展開する。
・・・・ 
 
 

目指せ、あの「土手」!なのだが・・

 6時半出発、8時20分帰宅。6800歩。
 
 常磐線南柏駅の我が家方向とは線路を挟んで反対側に松ヶ丘という地区がある。ここには「日本一の規模で」残されている野馬土手がある。徳川幕府直轄の広大な放牧場の一つ上野牧(かみのまき)を取り囲んでいた土手で、中に堀(大きなV字溝)が走り、堀を挟んで低い土手が牧側、高い土手が村側(農地側)となっている。この構造で牧の中の軍馬が村の方に進出することができないと言われている(写真)。
 こちらに移り住んだ頃は好奇心いっぱいで歩き回り、見て回り,カメラに収めたものだ。しかし、教育運動や職場の活動でこの30年ほどは知識として留まっているだけで、身体を使ってこれらの史跡を確かめることは怠っていた。南柏駅のすぐ近く旧水戸街道沿いにもあったのだが、いつしか視界から消え去り、マンションが建っているのを、通勤時電車の窓から眺めるようになった。せめて、ほんのわずかでもいい、痕跡を見いだしたいと、今朝のリハビリ散歩の目的の一つにつけ加えた。
 南柏駅まで25分。相変わらずのドタンバタンの歩きぶり。連休に入ったせいか人も車も通りが少ない。途中でオレはなぜリハビリをしているのか」などの自己疑念に襲われ、「まともに歩けるようになるはずはない。」との自己否定に陥り、「しかし、生きている限り、家族や社会に及ぼす悪影響を可能な限り減少させようとするのは義務であるから、リハビリに努めねばならない。」と自己叱咤でハタと我に返り、憂鬱以外の何ものでもない感情に包まれれる自己存在に気づいた。「鬱なんて勝手な情感に浸り込むんじゃねえぞ!」
 駅前ロータリーで5分ほど休憩して野馬土手のあった方へと進む。なんと、見事に整地され、マンション群以外に、しゃれた児童公園に姿を変えていた。公園とはいうものの、駅への通い道として横切られるコースとして活用されている(写真)。この公園を抜け旧水戸街道を松戸方向に進むと、「奇跡のように残った」野馬土手があるという。明日は脚を伸ばそう。本当はかつて通った松ヶ丘の野馬土手をカメラに収めたいのだが、歩行に不安な大きくある現状では、気持ちを抑えた方がいい。
 あとの行程は今谷上町の鎮守様にお詣りと藤の花の鑑賞と今谷刑場跡の訪問、そして帰路へ。途中、出勤にそ急ぐ細君と出会った。「行ってらっしゃい。」
 

くやしいなあ

 朝のリハビリ散歩は中止。午前中昨日の長時間長距離外出の疲れをとるべくのんびり過ごす。
 ぼくの朝食に欠かせないバナナが、名戸ヶ谷病院近くのスーパーで大安売りをしているチラシを見て、今日のリハビリを兼ねて購入に出かけることにした。前回の診察の帰りに病院から自宅まで徒歩で帰った経験を思い起こし、無理ではないと判断した。午後2時10分出発。しかし、新柏駅までで身体が悲鳴を上げた。駅からスーパーまではあと倍ほどの距離がある。悔しいが断念。学生だとこういうのを「挫折」というのだろうが、「挫折」は、いわば、お先真っ暗なこと。何、今日はマルセリーノちゃんが,昨日の今日だ、休ませて、と悲鳴をあげただけだ。と思おう。
 東武スーパに立ちよりバナナを買おうと思ったが、念のため上娘に電話。自分が行って買う、というので言葉に甘えて、ぼくは、この季節にしか口に入れることができない生シラスがあれば買おうと思い、店に入った。ありました。万歳!
 よれよれで休み休み、家路に着く。帰宅午後3時50分。4300歩。
 それにしても、この根性無し、こんな調子でいつ社会参加できるやら。本当に悔しい、自分に腹が立つ。このままでは気持ちを抑えられないので、昨日買ったリハビリグッツで遊び、心を抑えた。

こころ 6 再録「野生児」

 在パリ中に、K君が、Lucienne STRIVAY著 ENFANTS SAUVAGESという本をジベール書店の書棚から見つけ出してくれた。Lucienne STRIVAY(ルシアンヌ ストリヴェ)という人物の情報をまったく持っていないぼくは、この本がどのような類のものなのか、直ちには判断できなかった。ただ表表紙には映画「野性の少年」より少年が川辺で水を飲む場面が使用されていることが目を惹き、サブタイトルの「人類学的アプローチ」にはことさら興味を強く持った。2006年、Gallimard(ガリマール)刊。
 宿に戻り素読み―分かる単語だけを手引きにして大筋を理解しようとする行為―、そして索引を丹念に読んだ。索引にセガンの名が登場するので、ついでに、該当場所を読み取る努力をした。セガン実践について触れているのではなく、セガンを通した「アヴェロンの野生児」のイタール実践評価が記述されていた。セガンに関しては文献的に目新しいものは使用されていない。『1846年著書』と「1856年論文」だ。
 セガン「1856年論文」に登場するイタール実践以前のさまざまな「野生児」はもちろんのこと、それ以降現代に至るまでの「野生児」が叙述対象とされ、またカラーを含めたイラストも数多く用いられており、すこぶる付きの、興味深い内容となっている。約450ページのフランス語とあれば、読み応えがありすぎると言うより、ぼくの能力では読みこなすことができないけれど、拾い読みだけで止めるのにはもったいないと思う。
 ヒト種がヒト種以外の生物に育てられ、生命を長らえることができるなどということは、ぼくには懐疑以外の何ものにも感じられないが、本書序文で出てくる三つの単語がこの問題を考える上で重要だと思う。すなわち、1. avatar(アヴァター、「変化」)、2. fête(フェト、「祭」)、3. carnaval(カルナヴァル、「カーニヴァル」)。いずれも実在の人間社会の、「野生児」を見る「目」であり、「騒ぎ」である。それはあくまでも「異化」を仕立てることによって「同化」を強固にする方策と言おうか。このあたり、我が国の学校教育の支配的哲学と類似しているように思う。
 Lucienne STRIVAYは、ネット情報によると、ベルギーのリエージュ大学で教鞭を執るエッセイストだということだが、もう少し情報を集めたい。この本には著者情報が載せられていないようなのだ。
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 さらに深く「文明」論を深める端緒だったのに、見落としてきてしまっている。ぼくの、「歩く教育学者」になりきれてこなかった「歩くしか能のない教育研究者」たるゆえん。やっぱり怠け者なんだな。

長時間外出リハビリ

 午前9時出発 午後4時帰宅 12300歩
 
 久しぶりに、市川・中山で鰻を食べましょうということになった。自宅→新柏船橋→下総中山という順路になる。1時間15分。10時半にトドちゃんと待ち合わせの喫茶店に到着。ちょっとだけの移動ができたにしか過ぎないのに夢は大きく膨らんで、喫茶店の前のJTB旅行案内パンフレットのフランス編をいただき、研究という思い込みに縛られずいてみたいところを探した。やはりニースは忘れがたい。トドちゃんが到着し、ひとしきり旅の話。しかし、料金のことを念頭に置かなければならないことを思い知らされた。11時半、鰻屋に向けて出発。鰻丼の他にホヤの小鉢をいただく。いうことなし。ご飯を食べ残さないようになっていたが、それはそれでいいことなのか?
 法華経寺の参道に向かって歩く。緩やかな上り坂が続くので脚に負荷が掛かる。道すがら見事な深山ツツジの鑑賞。続いて山門、参道を望む。山門をくぐり抜けると見事なボタン桜。


法華経寺及び境内、そして季節の花の紹介。そして貴婦人トドちゃんを入れ込む。

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 法華経寺を後にして、門前町・参道そして下総中山駅。あとは帰路、となるが、市川市の行政サービス窓口が置かれている「清華園」で大休憩。園内の草花も愛でたいではありませんか。


 あれ?園に住み着いている猫が最後に収まっているぞ。
 こうして、退院後最大の外出リハビリを済ませることができたが、今日の満面の笑みは、手のリハビリグッズを手に入れたことだろう。手作りの布グッズのお店で購入したもの。