エドゥワード・セガン「白痴たちの治療と教育の起源」(1856年) 翻訳まえがき

 エドゥワード・セガンは、1812年フランス王国東部・ブルゴーニュ地方の小さな町クラムシーに生まれた。10代半ばにパリに出、超エリート養成の中等教育学校コレージュ・サン=ルイに学ぶ。在学中、サン=シモンの唱える「新キリスト教」主義に共鳴しサン=シモン教教徒となる。また、コレージュ終了後は法学部に籍を置き、サン=シモン主義運動の他、政治的には共和主義者となる。王政転覆を謀る秘密結社・家族協会に加わり、国家転覆の陰謀の容疑で逮捕されるほどのラジカリスト山岳派)であった。
 25歳の時、唖で重度の知的障害(白痴)の子どもの教育を手がけたことをきっかけとして、その生涯を、白痴者の教育と福祉の確立・発展のために身を捧げた。
 J.M.G.イタールによって白痴教育の夜明けが告げられたが、その弟子セガンは、白痴の子どもすべてに有効な教育の開拓に挑戦した。初めは一人の子ども、続いて複数の子どもに適用する教育を私塾で進め、続いてフランス王国公認の私立学校を設立した。さらには、そこでの成果をもって、多くの白痴の子どもが収容されている公共施設(「救済院」)で自身の開拓した教育を適用し、大きな成果を上げた。「セガン教具」の開発もこの時である。ヨーロッパにその名を轟かせることになるが、白痴たちへの作業療法等で一定の成果を得ていたフランス社会の精神医学者たちとの対立が激化するようになる。1843年末に救済院勤務を馘首された後、セガンは、自身の教育論の体系化を果たした(1846年)。700ページを優に超える大著は斯界のテキストとされたばかりか、後年、マリア・モンテッソリーの教育論を誕生させる源となる。
 その後フランス社会で白痴教育に携わることはなかったものの、共和主義者セガンの魂は強く生き続けており、フランス社会は1848年2月革命によって王政から共和政に移行する(「第2共和政」)が、セガンはこれに貢献した。しかし、時を置くことなく政治反動が強まり、セガンと共に革命運動に参加した多くの同志たちが弾圧を被るようになる。その動きを見てセガンは、フランスは自らと家族が生きる大地ではないと見なし、アメリカ合衆国に移住した。精神的には亡命に近いだろう。1850年頃のことである。
 セガンはアメリカ社会における白痴教育の指導者として熱烈に迎え入れられた。白痴教育ばかりではなくアメリカの教育改革にも力を提供する。1880年、フランス名エドゥアール・オネジム・セガンは赤痢に罹病しその生涯を閉じた。セガンが開設した学校には、彼の死後であるが、滝野川学園の石井亮一が訪問しており、「セガン教具」はじめ、セガンの教育遺産を我が国に持ち帰っている。ニューヨーク市立大学から医学博士号が授与された。
 セガンは普通教育についても言及しており、とりわけ子どもたちを教室や机に「縛り付ける」教育ではなく、「学校園」等自然の中での学びを強く推奨している。また、教科書一辺倒の学びではなく、子どもたちが生活の中で自然に身につけた知識や社会性の意義を高く評価している。こうした「生活教育」的な観点からも、セガンを再評価する必要があるように考えている。

 セガンのこの論文は、(1)セガンが白痴教育を手がけるに至った過程およびそれに影響を与えた人物や思想、(2)白痴の訓練と治療の歴史的起源とそれを担った歴史的背景の二つのパートから構成されている。もちろんそれぞれが無関係に述べられているのではなく、セガンが白痴教育を手がけ始めるとともに、旺盛で多角的な研究をも始め、その成果として、セガンに独自な白痴に対する治療と訓練とを開発・発展させていったことが述べられている。この論文はセガンのフランス時代における総決算とも言える。フランス近代社会の夜明けとともに白痴たちの夜明けが告げられた。「白痴は不治である」(精神医学者ピネル、その弟子エスキロル等)ことから「訓練され治療され教育されうる」症状であることのヴェールが次第に剥がれていく、そのプロセスに若きエドゥワード・セガンが参加し、やがてその実践成果はヨーロッパ・アメリカ社会における白痴教育のモデルとなっていった。そのことに対するセガンの誇りがひたひたと伝わってくる。
 ところで、セガンの白痴教育はジャン・ジャック・ルソー『エミール』(17 年)の論に影響を受けていると言われてきた。我が国のセガン研究ではほぼ定説となっている。しかし、1856年にセガンが発表したこの論文には『エミール』もルソーも、その名は登場していない。それどころか、セガンは、18世紀の感覚主義哲学を根拠とする白痴教育は誤っており、19世紀の哲学(「新キリスト教」に発するサン=シモン主義)による白痴教育こそがすべての白痴たちの福音となった旨を述べている。この論文はセガンがアメリカ合衆国入りしてから初めて発表したものである。その意味では、彼のフランス時代の総決算であるだけではなく、アメリカ社会における方針であるとみなすことができる。そして、この論文にルソーの名が登場してこず、サン=シモン主義、聖書が登場することの意味は大きい。サン=シモンの「新キリスト教」は聖書の原点に戻れと主張するプロテスタンティズムである。フランス時代の諸著作にもルソー(『エミール』)を評価する一文はあるにしても白痴教育の哲学として援用する痕跡を見出し得ない。セガンの白痴教育の成立過程とその構造を明らかにするのは、ルソーの論にではなく、サン=シモン主義の論、例えば『サン=シモン教義』(1829年)に拠るべきであろう。
 とはいうものの、アメリカ時代のセガンの言説にはルソーを評価する姿を見ることができる。例えば、部分的な指摘にしか過ぎないが、1866年に公刊した、『1846年著書』の英語版とも言われる大著『白痴および生理学的方法による白痴の治療』の序文には、生理学との関わりでルソーの名が取り上げられている。同書が公刊されたのは、いわゆるルソー主義による教育の先駆者たちの成果と名声が喧伝されるようになった時期である。これらのことを考慮すれば、『1866年著書』は『1846年著書』の単なる「翻訳書」なのではなく、ルソー等感覚主義哲学の再評価によって「書き改めた」とみなすことができる。つまり、セガンの白痴教育論は彼自身の中で「進化」していった、ということである。これらの検討は後日に詳しくしたい。
〔参考文献〕
清水寛編著
セガン 知的障害教育・福祉の源流―研究と大学教育の実践』全4巻、日本図書センター、2004年