2011-07-01から1ヶ月間の記事一覧

「清瀬」授業最終回

梅雨が明けたそうだ。カラリと暑い。脳天に熱線が突き刺さる。 「清瀬」での「教育方法研究」は今日が最終回。「自己評価」→「グループ評価」→「自己評価」の活動。クリティークな力をつけるのが狙い。どれほどに学生たちは「評価」の目線を自らに向けたろう…

「熟女」からのお誘い

午後3時過ぎ、携帯にメール着信の振動を感じた。誰だろう?何だろう? 「こんにちは。今日も早くお帰りですか?もしお元気でしたら、押しかけてもいいですか?」 姫様だ! えっと、早く帰るわけがない、という結論が直ちに導かれる。 「7時まで会議ですが、…

前期授業終了

今日でぼくが担当する授業はすべて終了。来週が試験週間。 学生の姿が多く見られる今週。ぼくの学生時代もこんなんだったかな?ぼく自身は「始め」と「終わり」だけを大学で過ごし、ために、学期末の多くの試験を「放棄」したのだが(その代価は背負うのが大…

ウイスキーダブルを呷る

今日は教室の納涼会。珍しく日本酒はまったく供されず、ビール、赤白ワイン(産地も色々)、ウイスキー、黒糖泡盛が供された。ぼくがいただいたのは乾杯用のビール。そしてウィスキーをダブル、黒糖泡盛をシングル。イヤー、おいしかった。ふだん飲めない(…

いったいどうなってるのだろう

ぼく自身、紳士ではない。こちこちのモラリストでもない。だが、他者を不快にさせてはならないと思うほどには社会性があるつもりだ。相手が頭を下げない限りこちらも下げない、というほどに「上から目線」で生きているわけでもない。朝夕の挨拶は、比較的、…

こんな日も珍しい

「引き籠もり鶴」を得意技とし日常性としているこのぼくに、あまりにも希有な出来事が重なった今日。 1.自身の「明日」に不安を覚え「安心」を求め来る若き人有り。抽象的「安心」では「不安」な「根性」しか活路は見いだせまい。時間が迫っていることもあ…

ぼくがオーソドックスでない証拠

今夏、10日ほど、パリ、オーセールを旅する。今回の旅は通訳、ガイドがほとんどつかない。ひょっとしてぼくの外国の旅では希有な経験。 何度も行っているといっても、「言葉」の壁に覚える恐怖はぬぐい取れない。それで、これまでの旅の記録を紐解き、それを…

「セガン教具」に関するある私信

「前略 お元気で研究に精進しておられることと思います、さてー 貴君がご指導いただいたことのあるガトゥ(Jacqueline Gateaux-Mennecier)先生の、1986年にパリ第5ソルボンヌ―ルネ・デカルト大学社会科学養成研究系に提出され社会学博士号が授与された論文…

「セガン教具」との出会いの日のこと

ぼくの「セガン研究」は、ある歴史過程に生きた一人の人物―オネジム=エドゥアール・セガン―の「疾風怒濤」の足跡を具体的に解き明かすことによって、「青年が時代社会の中で生きるとはどういうことか」、有り体に言えば、青年期とは何か、を探究するものであ…

セガンの「教育への権利」主張

2005年の今日の日付は、日本セガン研究会が発足した年月日である。この日ぼくは、こんなエッセイを綴っている。まだ本格的に「セガン研究」を開始していない時期の問題関心が、今、妙に新鮮に思われる。史実の誤認もあるが、敢えて再録したい。 「セガンの1866…

続ヘチマのたわごと―セガンはパリで、「リセ」で学んだのか「コレージュ」で学んだのか

お偉い先生方にはどうでもいいことなのだろうけれど、ヘチマはスカスカ頭から空気がスゥスゥ漏れるのが気になって仕方がない。 いずれのセガン研究も、セガンは「リセ、サン=ルイで学んだ」と記述されている。セガンがパリで学び、政治運動、文学活動、そし…

ヘチマのたわごと

このところ気になる研究情報と接している。いずれもセガン研究の開拓者であり、今もなお、セガン研究でリードをしておられる津曲裕次先生の論文だ。一本は「知的障害児教育の創始者エドワード・セガンの家庭及び生地についての研究ノート」(純心福祉文化研…